№34 新日本古典文学大系57「謡曲百番」(西野春雄校注、岩波書店
 江戸時代に編まれた謡曲集。その名の通り、有名な謡(能のシナリオ)が100集められている。
 一番印象に残ったのは「海士(あま)」。なぜ印象に残ったかというと、母の愛、しかも激しい母の愛を描いた作品だったから。あらすじ(の一部)を紹介すると、

 淡海公藤原不比等)の妹が氏神に納めようとした宝珠が龍神に奪い去られた。その行方を追って讃岐の志度の浦に下った淡海公は地元の海士(あま)と契り一子を設ける。淡海公に宝珠の奪回を要請された海士は、生まれた子を世継ぎにする約束を取り付け、海底にもぐり命と引き換えに珠を取り返す。

 話は成人した子(大臣になってる)が母の供養のため志度の浦にやってきて、そこで母の亡霊に会う、というところから始まる。上の話は亡霊となった母自身の口から語られるんだけど、その話がすごい勢いで迫ってきた。私は母がテーマの作品のときはついつい自分の母親を念頭において読んでしまうので余計に胸に響いたのかもしれない。

 海に入った海士は、並み居る龍や「悪魚」や鰐にさすがにひるんで、
 「逃れがたしや我命、さすが恩愛の故郷(ふるさと)のかたぞ悲しき」
と海面の方をふりむき、
 「あの波のあなたにぞ、我子はあるらん、父大臣(不比等)もおはすらん、去にても此儘(このまま)に、別れ果なん悲しさよ」
と涙する。でもその一瞬の躊躇のあとに、
 「又思ひ切て手を合はせ」念仏を唱え、剣を額にあて、ざっと敵陣に切り込んでゆく。敵が左右に退いた隙に宝珠を奪い取り、追ってくる龍たちに対し、なんと、なんと、
 「乳の下をかき切り、玉を押しこめ」
 自らの剣で乳房をかき切り、そこに珠を隠して守るのだ。あたりの海水は血で染まり、血を忌む龍神がひるむ隙に見事海士は逃げおおせる。しかし縄でもって海上に引き上げられた海士は、珠を淡海公に渡して息絶えてしまう。

 私は小さい頃、マフラーを編んでくれたりおやつにプリンを手作りしてくれたりという理想の母親像を抱いていたから、気性の激しい母が心底恨めしかった。でも、子に幸あれかしと願うこころは元来なにものをも打ち負かす激しさを秘めたものであって、この海士のたぎり立つ血が世々に伝わって、いま母の中にも流れているのかもしれないと、そんなことを思った。