「羊を巡る冒険」「蛍・納屋を焼く・その他の短編」

 村上文学の世界性について(「内田樹の研究室」より)
 http://blog.tatsuru.com/archives/001706.php

 村上春樹の文学は「父抜き」の文学であるという。
 内田氏は「父」を二つの意味で使っているらしい。つまり、世界に偏在しあらゆる場所で機能する原理たる「(真の)父」と、現実として世界の各環境にそれぞれの様態で現れる、〈神・預言者・王・資本主義経済社会)等の「父のパロディ」「ローカルな父」。上記の「父抜き」の父は多分後者の意味。

 これを読んで、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を思い出した。『カラマーゾフ』は父殺しによる自己の崩壊を描いた作品だったかと思うけれど、二十世紀も末の小説は殺しの葛藤を飛び越えて「父不在」の地点からスタートしちゃうんだなあ。

 つらつら考えていたら猛烈に村上春樹が読みたくなったので、『羊をめぐる冒険』『蛍・納屋を焼く・その他の短編』を読んだ。面白かった。考えがまとまらないので感想は書けないけれど、とにかくも『羊』で驚いた箇所。

 「おそらく我々は十九世紀のロシアにでも生まれるべきだったのかもしれない。(中略)僕だって十九世紀に生まれていたら、もっと立派な小説が書けたと思うんだ。ドストエフスキーとまではいかなくても、きっとそこそこの二流にはなれたよ」

 先回りして裏をかかれた気分。後の方に「カラマーゾフの兄弟」の書名も出てるし。慌てて検索したら、こんなのもあった。

 http://www.roy.hi-ho.ne.jp/nobuhiro/book/r004.html

 ぎゃふん。村上春樹ってドストエフスキー好きだったのか。無知って恐ろしいと恥じ入った。じゃあ内田氏の発言もそれを踏まえてのものだろうか。うーん『カラマーゾフ』を再読したくなった。