123冊本その73:野上弥生子「迷路」(岩波文庫)

 「戦争で中断しながら20年をかけ、昭和31年完結」した「大長編小説」。長編に大がつくんだからすごい。
 「お辞儀した」(転向した)青年の敗北感や政治の中枢部の思惑やら戦争で儲ける商家の気負いやら。「夜明け前」のときも書いたけど、これだけ膨大なものを書ける強靭な精神にまず脱帽する。
 細かいことを言うと、多津枝の目の大きさが左右で違うという設定が、最後までよく生きていると思った。まあ私は万里子ちゃんの方が好きなんだけど。しかし最高なのはなんといってもとみさんですよ!従順な中にちらりと見せる艶。とみさんのとこだけでも抜粋して誰かに読ませたいくらい。
 江島宗通(とみはこの人の奥さん)という能狂いの老人が出てくるので、能に関する場面が結構多い。梅若万三郎という実在の人物も出てくる。

 「つねでも童子めいてふくよかにまるい万三郎の顔は、こんな場合いかにも繕いなく、間が抜けて、ほかのことは何一つ知りもしなければ、知ろうともせず、またなし得ることもなければ、なしたいとも願わず、しずかな水が月の影をみださず宿しているように、ただ美しい芸の一個の容れものになっている彼自身を、はっきり現わす。宗通にはそれを見るのが楽しいのである。」(上巻・554頁)

 好きな場面の一つ。